調布の酪農家、小野一弘さんに聞いた。 調布で農業を続けることとは。

調布の酪農家、小野一弘さんに聞いた。
調布で農業を続けることとは。


Posted on 2015-1-9



農家の子供に生まれて
 

明治時代、文明開化とともに、衣類や食べ物などを西洋から取り入れ、日本人の暮らしも大きく変わってきました。牛乳は当時「元武士」たちの間に、それを商売とする者が出てきたり、松本良順氏が牛乳に滋養効能があると宣伝したことで、瞬く間に広まりました。

牛乳は日持ちしないので、新鮮な状態で消費者に届くことが必要です。交通網が未発達だった頃は、供給源である牛舎は身近な存在だったことと思います。先人達の工夫と努力によって、牛乳がパンやスクランブルエッグとテーブルに並ぶことは日常的になりましたが、一方で牛舎は遠い存在になりました。

 


調布市内の一画に、牛舎を構える酪農家がいます。私が、小野一弘さんを取材したその日、大きなお腹を抱えた牛は出産したのです。牛舎の中は興奮した牛達の声が響き渡たり、子を見つめる母牛、今でも目に焼き付いています。

小野さんは、目まぐるしく変わっていく東京で、数少ない農家の子供として生まれ、少年時代には様々な葛藤を乗り越えてきました。一度は牧場を離れたものの、意外な理由で再び家業に就くことになりました。
調布市では唯一の酪農家となった小野牧場、地域に根付いた牧場として現在も牛乳を生産し続けています。


昭和38年生まれの小野さんは、小さいときから畑仕事や牛の世話をする父親の背中を見て過ごす時間が多くありました。家業の手伝いをすることは自然のことだったそうです。
 
小野さん「昔は、稲藁が中心なのね。自分たちでその切断を最初やってたんだよ。稲藁を切るだけの機械っていうのがあって、それで切った稲藁、餌水入れながら麩とか、マッシュを適当に混ぜて、飼養桶に入れるのがちっちゃい時のおれの役目だった。」

小野さん「牛屋さんで同い年っていないんだよ。近所にはおれくらい。だから小学校行くと、牛飼ってるだけで馬鹿にされるから。おれの友達なんか皆サラリーマンの家庭。やっぱり農家とか、特に牧場なんてやってるのはここら辺でそんなにいないから、いじめの対象になるわな当然。牛臭いとかよく言われたし。まあ、いじめっ子はいるもんだからさ。どこの場所だって。」



小野さん「そんなことあってもずっといじめが続くわけでもなくてさ。一緒に遊ぶ時は遊ぶし。自転車で一緒に多摩川住宅の公園行ってさ、当時の公園が面白いんだよ。コンクリートで作った遊具とか、ブランコとか。当時は遊園地並みだよね。そこで遊ぶのが楽しかったね。いじめてる連中なんかも、みんな一緒にいて遊んでたりしてたね。
そんなような時代なんだよね。でもまあ難しいよね、農家とサラリーマンの子が同居するって。なかなかお互いが自分の家について同情し合うっていうのはないじゃん。生活スタイルが違うから、すごくギャップみたいなのも感じたね。」


大体一日当たり14頭前後で310〜320kgほど搾乳する

―そのいじめのことを親に話したりはしましたか?
 

小野さん「したけど、うちはうちだからって言って。やっぱそういう話になっちゃうじゃん。どうしたって。そういう葛藤が子供時代はあったね。中学くらいになると、なんでウチの仕事こんななんだろうなって思うのはやっぱりあったね。ちょっと色気ついてきて。
牛がいると夏休みとか家族で旅行っていうのは、まずできないわけじゃん。なかなか人に頼んで出来る仕事じゃないから。だから旅行に行くっていうのはほとんど記憶にないんだよね。泊まりがけの旅行っていうのは憧れではあったね。
でも親父なんかはそこらへん気使ってくれて、よく秋川に川遊びにつれてってもらってたね。」


搾った牛乳は、工場出荷前に120℃程の管を通し、殺菌する

―夏休みが終わったら、みんな帰ってきてどこ行ったとか、そういう話したりして。
 
小野さん「そうそう。やっぱり寂しかったよね。自分には行けないんだなって思ったりしたし。大学は、まあ当然畜産関係も思ってたんだけど、造園学科を4年間やってきた。この街の環境みて、うっすら自分でもわかってたんだよ。」
 
このことが、農業や酪農以外の世界を知る機会となったそうです。
 
小野さん「高校三年生のとき、担任の先生がラグビー部で、クラスも“One For All, All For One”の教えなのね。とても熱血漢ある先生に会えた。それと造園仲間に、アベくんっていう秋田出身の友達がいたんだ。その彼から『邦楽やらないか』って誘われて一緒に音楽やってた。彼の言う邦楽っていうのは尺八演奏だった。まあ4年間結局やることになっちゃったんだけど、邦楽の師範の先生にしても農大の卒業生の先輩なんかでも、色々お世話になった。」
 


小野さん「大学3年生の時から農業祭の学科副委員を任され、そこで酒を覚えて。楽しかったよ。
農大っていったら応援団とか、大根踊りとかって有名なんだけれど、学生服を着て農業祭の宣伝として大根配るんだよ、高円寺の駅前とか渋谷の駅前で。それがやっぱり面白くて。
なんていうのかな。縦割の世界だったから、結構そういうの好きで、次の4年のときに学祭の学科委員長やらせてもらって。そういうのが自分のベースではあるね。」

 


小野さん「その準備は夏休み位から始まっちゃうから、半年はそれで終わっちゃうんだな。終わったら抜け殻状態。まあそうこうするうちに、進路の話になり。
その時研究室の先生に『多分、自分の家継ぎますから』って話したら、先生も『せっかく造園の技術を学んだんだし、色々やってみるのもいいんじゃないの』って。色々紹介してもらったんだよね。
でも、そのときにはこの(牛舎の)話がもう進んでたんだよ (笑)」

ーそうなんですね... 


小野さん「親父はこっち側(以前は北側に牛舎があった)に牛舎を造るって話をしてて。
大学4年の12月の学園祭が終わったくらいから、いきなり木倒してブルドーザー入れたりしだしちゃって。『牛飼うんだ』とか言って。息子の話も聞かずにどんどん進めちゃうし。まあ頑固な人で。その時からこれはもうダメだなって思ってたから諦めちゃって。もうどんどん進んでいくからさ…でも悩んでたね。当時もずっと。」

 

 

小野さん「以前からもう牛は無理だろうな。続けられないよなって思ってたけど、親父は逆!
増やす事を考えてたから(笑)ここまで金かけてるんだなとか思うと、やるしかないなって気持ちではいたね。」

 


現場で学び続ける事
 

小野さん「親父は我流でやってきてた人間だから、おれもそういう中で育ってきてる。仕事は確かに手伝えるんだけど、親父の知識を継承して覚えてくることしか知らなかったんだよ。
でも当時は手伝いだけだったのが、今度は自分で動かなくちゃいけなくなるわけじゃん。当時わからないことって一杯あったのね。そこで農業改良普及所の先生や、農協でユンボやトラクターの扱い方をメーカー呼んで講習受けたりして、技術を教えてくれた。それがちょうどおれが入った22、3歳ぐらい。」

ー大変だったんですね。 

小野さん「今ももちろん難しい事はあるけど、こうしようああしようっていう気持ちになれるようにね。もう全てなんだよね。だからちっちゃいときから覚えてきた事とか、獣医さんとか普及員の人とかから教えてきてもらった事を全部ひっくるめて、実践しながら勉強してきたのが30代くらい。」


生まれた子牛に母牛の乳を飲ませる小野さん

小野さん「まあ今も技術は変わってくるんだけど、気持ちはいつもそうだよね。新しいモノをやっぱり、吸収したい。技術的な革新が、積み重ねられながら今の技術がある。ほんとにやる気持ちにならないと吸収しないだろうし、やればやったでこれだけ技術がありますよって教えてくれる。
だから今はすごく、環境には恵まれてきてると思う。」


 

排泄物を運搬する機械。動物を扱う以上、排泄物はもれなく付いてくる。
ニオイを抑える為にバクテリアを利用。分解されたものの一部は畑の肥料になる。
色々試した中で、現在使用しているオランダ製のものが最も効果的だという。

 


小野さん「酪農で今問題なのは、円安になっちゃって飼料が高くなってること、燃料費の高騰、都市近郊の酪農では、周りの騒音の問題やニオイの問題とか色々あるけど、すでに酪農がやりにくい環境の中で、いかに続けていくか。」



小野さん「この国の中の酪農の流れが段々変わってきてる。この間、新聞で見た北海道の牧場の経営者が、息子には継げとは言えないって言った瞬間、あ、これはダメだな!って思ったね。地域の指導者的な人が続けていかないと多分、無理なんだよ。新しい人がやるのも1つの時代の流れ。新規就農でやってく人たちも必要だろうけど、どこかにベースとしてそれを指導してく人たちがいないと、絶対繋がらない。」

大きいのは税金の問題 

小野さん「あと土地にかかる税金の問題。牛舎が建つこの土地は宅地なので、宅地並み課税になる。酪農の収入では、払うのは到底無理。今まで、ここで矛盾を抱えながら残そうと頑張ってきた。」



小野さん「今の農家って不動産でほとんど食ってる。この東京都市部の農業は、多かれ少なかれ不動産を糧に暮らしている。おれも現状そうなんだけど。」

小野さん「代々この地で畑を耕し、牛に草をあげ、米を作り、仕事に精を出し、家の繁栄を願い、村や人を想いながら繋げてきた。都市化に揉まれながらも、土地を守る。守り方も色々あるけど、おれは作物の出来が気になるし、牛の乳が少しでも増える事を考えながら暮らしたい。そういう暮らしが出来たら幸せ。」


やっぱり、農業で生活を成り立たせたい
 
小野さん「この地域で、農業で食っていけるっていうのを確立したいんだよ。その為にも頑張ってる。農業でちゃんと食っていけるようになりたいよね。そこがおれの生き方なのかもしれないし。やり遂げたい。」



 

小野さん「やっぱりこれで暮らせるような世の中でなくちゃダメだと思うんだけどな。さっき話したように、色んな人がいて、結局そこで技術的なことを教えてもらったり、人間的なものも教えてもらったりするからさ。ずっと作ってきてくれたのにそれが無くなってしまうのって、無力さを感じる。ちょっと寂しさもあるよね。
今は都市の中の緑地として大切に考えてもらえる。確かに都市化の中で、数少ない農地を守りながらやっていく農家って貴重だよねって風潮がなんとなくあるから。
地元の野菜を食べられる、喜んでくれる人たちがいるからっていうのも今の方がちょっとあるのかなって。だから色んな意味合いや存在意義を求められるのを何となく感じてる。色々協力してくれる人たちも増えたのかなと感じるし。」



 

小野さん「当時から比べれば、色んな野菜が作れるようになったり、幅が広がった。食文化もそうだと思うんだけどね。フランス、イタリア料理とか色んな料理を国内で食べられるし、お店も増えたと思うし。広がる世界観はあるよね。考えたらなにか出来るのかなって。
ただそれだけで終わらせたくない。環境は厳しいんだよ、ほんとに。後継者の問題もそうだし、まあなんていったって固定資産税、相続税の問題とか。農業をしたくても出来ないような環境になりつつある。それでもやれるかっていう、根性を試される時期。
選択しなきゃいけないんだよね。覚悟がそこまであるか。そういう風に選択を迫られるっていう生き方というのは、ちょっと息苦しいけどね。でもそういう生き方も一方では悪く無いと思ってる。色んな幅を自分たちでやっぱ考えなきゃいけない。手探りでもいいからやってかないといけない。今までの考えのままでいると、本当になくなっちゃうよ。」



小野さん「色々話したけど、そういうことなんだよ。なんの問題もなくここがあるわけじゃないのよね。」

―都内に住んでいると、かつては畑だった所にマンションができていた、なんて話は少なくありません。そこで起こっていることは、まさに小野さんが語ってくれたことと同じかもしれません。父親が額に汗をかいて育てた野菜や牛乳の味をよく知っているからこそ、やりがいと豊かさがあると思うのです。しかしその働いた正当な対価を受けとることができません。
バブル期における都市部の農地は地価高騰の原因になるなどのバッシングを受け、平成4年には生産緑地法施行で、今後30年間の農業継続を条件に生産緑地指定、それ以外の農地は宅地化農地として税金を上げるという条件が設けられました。時代の流れを逆行するように、代々続けてきた農業を守ってきました。
数年前、私は北海道のとある田舎町に数週間程滞在したことがありました。その地域の家庭で食卓に並ぶ野菜や肉など、そのほとんどが地元でとれたものだったのです。そこで感じたことは、「信頼」でした。送り手と受け手の身近で対等な関係が、食べ物あるいは農を通して強く繋がっているのです。風土や事情は違えども、この豊かさが東京にも残されていることをもう一度、再認識できるチャンスは今なのです。




(記事 : 田邊 真 / 
写真 : 薩川 良弥)




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